OBのインタビュー記事

2022/04/07 10:20

取材日:2022年4月
今回の流経大柏OBインタビューは、21期卒の今村 匠実さんです。現在スペインリーグのデポルディーボ・アラベスでお仕事をされております。

流経大柏サッカー部を卒団し、多様な経験を積んだ今村 匠実さんの軌跡と現在の活動、今後の展開に関するお話は、現役高校生にも非常に参考になると思います。

今現在、スペインリーグのデポルディーボ・アラベスでお仕事をされていますよね?これはどういった経緯があったんでしょうか?

大学院を卒業した後、プレーヤーとしてオーストラリアに半年、次はニュージーランドで2年過ごした後に、スペインへ向かいました。スペインの6部でプレーをすることになりました。バルセロナに滞在していたんですが、Jリーグの関係者から「今度スペインに行くよ」といった連絡を頂いたんですね。

怪我の影響もあり次のチームとの更新も出来なかったので、フリーの状態でスペイン中を回っていました。リュックひとつで、日本からきた知り合いに会いに行きまくっていましたね。そしたらたまたまそこに、鹿児島ユナイテッドの社長さんがいらっしゃったんです。アラベスの会長と鹿児島ユナイテッドの社長さんと食事をする機会があったんですが、提携する為の話をする場だったんですね。

すごい場所に居合わせましたね。

全然知らなくて、皆さんピシッとしたシャツをきていたんですが、自分は半袖と半ズボンにリュックで居合わせてしまいましたね(笑)。

その場にいた人でスペイン語と日本語が話せるのは自分しかいなかったので、通訳的なことをしていたんですが、アラベスの会長から「ところで君は誰?」って言われたんです。

スペイン語は話せるけど、すごくラフな格好だし「ところで君は誰?」ってなりますよね(笑)。 
そこで今までの自分の経歴とか、会社を持ってやっていることなどを話しました。すると、興味を持ってくれて「インターンする?」って。そんなこと言われたら「え!いいの?」ってなりますよね。そんなノリだったので最初は冗談かと思っていて「明日行くね」って答えたんです。そしたら「明日から仕事振るから連絡して」そんな感じだったんですよね。

流石に次の日は無理だったので、5時間かけてバルセロナに戻り、2日後に本当に行ったんですよね。駅について電話しても出なかったので、直接向かいましたね。ドアをトントンってして「来たよ」って(笑)。

向こうはどんな反応だったんですか?

「おおー、来たか!」といった感じで、次の日からもう入ってしまいましたね。誰もアジア人がいないところだったので、めちゃくちゃ良くしてくれました。というのも、最初は全然分からなかったので、仕事も全部イエスで引き受けていたら、段々と「アイツ良いやつだな」ってなったんですよね。そうなってくると、みんな「日本に興味があるんだ」とか「日本が好きなんだよ」って感じで話しかけてくれるようになって、1ヶ月後に契約社員で居たら良いんじゃないって感じで、ちょうど3年経ちましたね。

慶應大学卒業後は、有名な企業に就職するのが一般的なイメージですよね。でも、今村さんは、とても変わった選択をされていますよね?本日は慶應大学に進んだ経験から、現在に至るまでをお伺いしたいと思います。慶應大学に進むという進路は、流経大柏出身者として珍しいですよね?

当時は流経から慶應義塾大学SFCに初めて合格したと言われました。実は慶應大学を受ける予定は全くありませんでした。本田監督には話していましたが、ずっと筑波大学に進みたいと思っていましたね。

僕自身、勉強が得意というよりは、スポーツ界に身を置いてその力を発揮したいと思っていたんですよね。文武両道という言葉がありますが「武の中で文を発揮したい」って思っていました。なので、商社とか有名な企業に全く興味がなくて、サッカー界で頭脳を発揮したかったので、研究者になりたかったんです。

例えば、ワールドカップを見に行って論文を書いたりすると、それが職業になっている人もいますよね? そういう人の全部が全部、サッカー経験者という訳でもないんですよね。サッカーの経験がある僕が、そういう研究をしたいって家族や周りに話したときに「それ、めっちゃいいね!」ってなったんですよね。それが僕自身の始まりですね。

高校進学の際は、最初から流経柏という選択だったんですか? 

渋谷幕張は選手権の予選もそこそこまでいくし、頭もすごくいい高校なので、そこでサッカーをしようと思ってたんですけど、本田監督は「よし、うちで両立しよう」って感じだったんです。

なるほど。勉強の部分で何かサポートはあったんですか?

Ⅲ類は、大学進学に力を入れているクラスだったので0時間目と7時間目があるんですよね。朝の掃除をしていたら監督に呼ばれて「お前は0時間目だよ。出てこい」って。

「はい」しか言えないので、とりあえ職員室に向かったら、そこで監督が校長先生に「こいつ、今日から0時間目と7時間目も出ます」って言ったんです。当時の校長先生だった藤田校長先生は「うん。いいね、いいね」って感じで、0時間目と7時間目に次の日から参加することになりました。



Ⅲ類の先生も「誰が来たの?」って感じで。でも、一応話は通ってたみたいなので「とりあえず座って」って感じで、Ⅲ類の授業に混ぜて貰いましたね。


そうなってくると、朝練とかには参加できないですよね?


そうですね。「朝練はいいから、とりあえず授業に行ってこい」そんな感じでしたね。1年生の終わりくらいからそれが始まったんですよね。「練習も慌てなくていいし、予備校に行きたいなら行ってもいいぞ」って感じでした。

予備校には通っていたんですか?

「木曜日だけ行かせてください」って言って、バランスを取りながらやっていましたね。そのうちにⅢ類の先生が「慶應大学にはAO入試があるから、推薦に合格するようにやってみたら」と言ってくれたんですよね。高校に何も受験の資料がなく、自分で書き上げた志望理由書130枚を提出して、いざ受験したら受かってしまったんですよね。 

すごいですね!

全然進学するつもりはなかったんですよね。そもそも、慶應大学にサッカー部があることすら知らなかったんです。
だけど、合格した後にお母さんと話していて「筑波大を狙っていると言ってるけれど、慶應だよ?勿体ないね」って話になって、慶應にしちゃったんですよね(笑)。

サッカーと勉強の両立を成し遂げて慶應大学に合格するのは、並大抵なことではことでは無いですよね?

僕は普通にサッカーがしたかったんですよ。だけど、周りとてもが気を遣ってくれていたからこそだと思います。監督は最初「何がなんでも東大のサッカー部に進学しろ」って感じだったんですよ!「東大にサッカー部あるんですか?」って聞いたんですけど「いいから、それでもいけ」って感じで……(笑)。

僕が入学する前に「勉強もしたい」と伝えたのを覚えていてくれたので、そういった感じで応援してくれていましたね。 

最初に目指していた筑波大学進学から予定が狂っちゃった訳ですよね?

そうですね。実はその前に「スポーツ界はお前に向いてない。プレーをする分にはいいけど、筑波大ではなくて早稲田の政経か、東大」って感じで言われていましたね。

いざ慶應大学に進んでからは、どうでしたか?

当時の慶應大学は変革期でした。たまたま僕らの代は、良い選手が揃ったので、強くなったんですよね。

それまでの慶應大学は、幼稚舎からの持ち上がりが多かったので、とても上品な人たちが多かったように思います。サッカー部は、そういった伝統を重んじる部活だったので、ミーティングばかりでした。慶應の伝統を話し合ったり、毎日そんな感じで「いやいや、サッカーしましょうよ」って感じでした(笑)。

そんな感じなんですね?

サッカーをしていても、入ったばかりの1年生は雑務を請負ったり、2、3年生は中間管理職みたいな立場、ホウレンソウをしっかりするといった、企業のような組織化がされているんですよ。なので、何も経験していない大学生より、慶應のサッカー部は確実に優秀なサラリーマンが上手く育つと思います。

ギャップは感じませんでしたか?

 僕自身は、楽しくサッカーがやりたかったので、思っていたのとは全然違っていましたね。とにかくOBに気に入ってもらう方法を覚えたり、サラリーマン精神を身に付けるという意味ではいいと思います。外資系企業、商社に就職した者がとにかく勝ち組扱いでした。

すごい世界ですね。

それでも1、2年生の頃はトップチームに帯同できていたので、全然良かったんです。だけど、3、4年生の頃は、怪我をしていたということもあって、結構悩んでいましたね。

高校生の頃から知っていますが、今村さん自身怪我に悩まされることが多いイメージです。今振り返ると、何が原因だったと思いますか?

休養が不足していたのかなと思います。高校の時は線が細くフィジカル的な問題もあったと思うので、今になってやっとコントロールができているのかなと思います。

もう一つは回復ですね。変なところで真面目にやり過ぎてしまう部分があるので。
比嘉(祐介)みたいに、考えていない方が怪我はしないのかな?と思います。


この前話したときに、最後は怪我が多くなったことについて「休養が大事だ」という事は話していましたね。

無尽蔵に走れるのが、ある意味羨ましかったですね(笑)。


慶應大学を卒業してから、すぐにオーストラリアに行ったんですか?

 研究をしたかったので、大学院に進み、指導者を目指そうと思っていました。早朝に大学サッカー部のコーチをして、日中は大学院で授業を受けて、夜は少年サッカーチームのコーチを掛け持ちしたりしていました。

大学生とかも教えていたんですけど、教えていると、ちょっと自分が上手くなったような気持ちにもなったりして自分もプレーしたくなてしまったんですよね。その時にちょうど「慶應のOBチームが本気でJリーグ参入を目指しているから、やらないか?」という声がかかりました。まだ若かったので、体も動くし楽しかったですね。

現在の東京ユナイテッドの前身のチームですね?

そうですね。大学院が終わったときに、自分はまだ選手でやれるんじゃないかなというのは思いました。火がついちゃって、ちょっと海外でも行ってみるかなって感じで……(笑)。 

大学院後の進路はどう考えていたんですか? 

 最初は博士号をとって、教授を目指そうと思っていましたが、教授になるためには講師、助教、准教授といったように、下積みがかなり必要ですし、年功序列的な順番待ちも正直あります。たどり着くまでに長い時間がかかりそうだなと思ったし、それを待つ間「ずっとここにいても勿体ないな」という気持ちもありました。広い世界を知るといった意味でも、海外にいくのは悪くないなと思っていましたね。

そこからネットで検索していたら、サッカー留学斡旋会社に小学校から県トレで2トップを組んでいた仲の友達がいたんですよね。メールをしたら「オーストラリア行きなよ」って感じだったんですよ。それで修士論文を出した次の日には、オーストラリアに飛んでテストを受けていました。

オーストラリアの2部ですよね?結果はどうでしたか?

 そんな感じで受けたテストの感触がよくて、そこから始まりましたね。

オーストラリアのレベルはどうなんですか?

 現在、スペインにいることを考えると、ちょっとという感じですが、みんなとてもサッカーを楽しんでやっています。わかりやすくいうと、日本人が助っ人になれるレベルといったところです。家を借りるお金も出してくれたりしましたね。バイトもできたんですけど、バイトの給料もすごく良かったです。物価は高いですが、お金は貯まりますね。

現在もオーストラリアで事業をされていますよね?事業を始めるきっかけはなんだったんですか?

僕がオーストラリアでプレーをしていた時に、夢を追うためにバイトをして貯めたお金で海を渡ってきたけれど、チームと契約できずに心を病んでしまっている人をたくさん見かけました。だけど、実はオーストラリアはすごくオープンな土地柄なんです。僕自身が英語を話せたら、そんな彼らがチームを探す手伝いが出来るのではないかなと思ったことがきっかけですね。

実際に始めてみて、手応えはいかがでしたか?

順調でしたね。海外でビジネスを始めるとハードルが高く聞こえますが、全然できちゃいました。ホームページとかをドーンと出したりしたら、問い合わせがすごく多くて盛り上がると思いましたね。だけど、それでよく知らない子を海外に送り出してしまうと、トラブルが起きる可能性も高くなるので、僕たちは信頼できるところの紹介でしか動いていないですね。

世界中に何社かありますよね?

 オーストラリア、ニュージーランド、スペインをメインにしていますが、世界中とのコネクションは繋げるようになっていますね。日本が本社で、そこで海外に行きたい選手がマネジメント契約を結びます。オーストラリアに行きたい人は、オーストラリアの支部に送る、ニュージーランド希望の選手はニュージーランドの支社に送りますね。

他にも色々な事業をされていますよね?手広くやっていて、人手不足になったりしませんか?

 業種として様々なことをしているので、手広くやってはいます。株式会社として会社を設立してやっている部分と個人でやっている部分といろんな形でやっています。
人手は足りていないので、結局最後は自分がやっていた部分があります。今はネットワークも発達していて、遠隔でできる時代になりつつあるので、段々と人に任せたりできるようになってきましたが、最初は全然任せられなかったですよ。

今後はどういった事を考えていますか?

 すごく悩んでいますね。アラベス、鹿児島ユナイテッドを手伝わせていただいて、すごく良くしてくれています。だけど、本来の目的は研究をしたいというのが根幹にあるので、自分の目標に向かって舵を切って行こうかなというのも少し考えていますね。

僕自身の経験として、幼少期から指導者と合わないなと感じることが多々ありました。そういった経験から、理想の指導者像を持っていたりするので、今後目指すのはやっぱり指導者なのかな?って思っています。流経柏の本田監督もそうですが、指導者を70歳すぎても続けている方もいますよね。長く続けられそうだなと思うので、40歳くらいで本格的に指導者の方向に進みたいと思っていますね。今は、それに向けての充電期間だなと思います。

流経柏で過ごした3年間は、今村さんの人生にどのような影響を与えましたか?

 高校3年間はすごく大きなものでした。いまだに、人生のターニングポイントになった時期は、流経柏で過ごした3年間だなというのも感じています。キツかったけど、全員が上手かったし、ワクワクしたり感動することが本当に多かったなと思っています。

本当に上手い人が多くて、当時はその間に割って入るメンタルは持ち合わせていませんでした。もしかしたら、当時すんなり活躍できなかった経験が、今活きているのかもしれないなとも思いますね。 当時の悔しさがあるから、今の自分がいると思います。

今の在校生に一言頂けますか?

 全員がサッカーが好きで、志を高く持って入学してきていると思います。その気持ちを忘れないで欲しいというのは思います。僕は、その気持ちがブレなかったからこそ、素晴らしい経験がたくさんできていると思います。サッカーが好きという気持ちをブレないで持ち続けて欲しいと思いますね。

今村 匠実さんのTwitter
 
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